創業者・尾島博と生ハムとの出会い
創業者・尾島博は中南米経済学を学ぶ為、1965年、スペイン政府給費留学生としてスペイン・マドリードに渡りました。ある日、在マドリードの日本商社の通訳ガイドとして、生ハムの産地で有名なハブーゴに同行する機会がありました。そこで食べた生ハムにたいへんな感銘を受けます。「こんなにうまい生ハムがあるのか!」それは、滞在先のマドリードで日々食していた塩辛く硬い生ハムとは全く異なり、脂に旨みがある絶品でした。
ハブーゴでの出会い以来、上質の生ハムに対する関心が日毎に強くなり、バルでワイン片手に、生ハム・腸詰め類を食べ歩く日が続きました。実は尾島の実家は酪農、養豚と複合経営している農家だったので、帰国時には実家の今後の経営に役立つお土産を持ち帰りたいという願望もあったのです。スペインでは専攻したラテンアメリカ経済・文化と同じ位、若しくはそれ以上に、生ハムの「生産地」「生産者」や「製造方法」について調べ学びました。まさに生ハムに夢中になったのです。
帰国後も忘れられない味
尾島は1970年に帰国し、友人とコンサルティング会社を設立しました。この年は「大阪万博」が開催された年で、各パビリオンに各国のレストランが特設され人気を博しました。万博閉幕後は外国人シェフ達が日本に残り自国の料理の普及に努めたため、日本の外食市場が大きく変化していきます。日本からも料理留学する若者が増え、70年代後半には彼らの帰国によって、とりわけ西洋料理店の出店が多くなりました。
西洋料理店が増える中、尾島もスペインで食べたあの味が忘れられず、生ハムが評判の店を渡り歩きますが、満足の行く生ハムにはたどり着けませんでした。生ハムが評判の店と聞きつけて早速行ってみても、求めていたものとは違います。ついには自分の手で思い通りの生ハムを作ってみようと思い始め、夢を実現するための行動を起こすことになります。
試行錯誤から創業まで
作り始めた頃は当然ながら数々の失敗を体験しました。塩の加減や日本の風土に合った温度・湿度管理を探し出すまでには多くの生ハムを腐らせたり虫害を被ったりしました。さまざまな試行錯誤を経て、あるとき生ハムを仕込んでから1年が経過し、生ハムの香りを確認してみると、どうやら本場のものと同じようなものに近いものが完成しました。そこで、スペイン人の知人を招き、生ハムパーティーを開いたところ、好評を博したのです。彼らは尾島の生ハムを“国産生ハム”として外国人オーナーやシェフの勤めるレストランに広めてくれ、そうしたレストランから取り扱いの要望が次第に増えていきました。
このようにしてコンサルティング業務の傍ら徐々に主軸を生ハム作りに移していき、1979年、乾燥熟成肉製造としての製造許可を取得、本格的に生ハムの製造販売を稼動させていきました。
生ハム輸入解禁とセラーノの新たな役割
生ハム輸入の解禁以前の1990年前半まで、セラーノの生ハムは非常に多くのレストランで取り扱いいただきました。しかし1996年にイタリア、次いで1999年にスペインの生ハムが輸入解禁となり、取り扱いいただいていたレストランでも、本場の生ハムということで輸入品に切り替えるお店が続出しました。セラーノは“製造”という役割は終わったとして、残っている顧客のために輸入業務に切り替えようかと考えました。セラーノの生ハムは創業より一切の添加物を使用しておらず、当然輸入に当たり「無添加の生ハム」という輸入条件で引き合い状を出しました。しかし、100社余りに引き合い状を送付したにも関わらず1通として返信がなかったのです。
それをきっかけに創業以来守り続けてきた“無添加で生ハムを製造すること”に改めて価値を見出すこととなりました。自分が感動した味に、昔からの変わらぬ製造方法で、これからも国産の生ハム作りを追求していきたい、そしてさらに消費者に安心して食べてもらえる自然食品を提供することが新たな役割という決意を新たにしたのです。セラーノ製品はこのような歴史を経て、いまもたくさんのお客様にご愛顧いただいております。